118 It behooves us then to study Principle instead of focusing all of our attention upon the effects of Principle (source of origin). When we direct our attention towards that inner guiding force we become fully awake and feel the inter-relationship of all life. There has never been a time when one released the personal ego to this inner force that he has not seen some immediate result of action; so as one becomes more fully aware of his oneness with the All-Intelligence his faith is increased and consequently his fear is decreased. Faith is the result of one's unity with the Whole, and such unity cannot take place until every thought of selfishness with its whole category of resultant fears steps aside and leaves the highway of understanding free of barriers. So we may see that absolute faith is not of easy attainment - it must come through a gradual growth just as all things change by degrees. Faith is actually an expansion of conscious awareness to include more knowledge and certainty of action.
118 ですから私達がその注意をすべて法則(源泉)の結果物に集める代わりに、法則を学ぶべきということは当然なのです。私達がその内なる導きの力に向かって注意を向ける時、私達は完全に覚醒し、全生命の相互関係を感じ取るようなります。人が個人的エゴをこの内なる力に解き放つ時、行動の直ちに起こる結果を見ないままで終わることはありません。ですから、人が自身が全英知と一体になっていることに、より完全に気付くようになるにつれて、その者の信仰は増し、その結果、その者の恐怖は低減します。信仰とはその者が全体と一体になった結果であり、このような一体化は全ての結果に及ぶ利己的なあらゆる想念が脇にどいて、理解の王道から障害が無くなるまでは有りえません。ですから、私達は絶対的な信仰というものは容易には達成できるものではないことは分かると思います。それは、丁度、全ての物事が少しずつ変化するのと同じように、なだらかな成長を通じて実現する筈です。信仰とは実際には、行動に対するより大いなる知識と確かさを含む意識的知覚力の拡張であるのです。
【解説】
私達の進化の過程を表現するものとして、円グラフを例とすることが多いものです。即ち、目指すべき状況を円の全周とすれば、私達各人はその途上にあり、未達成な部分が少しずつ減った分、達成の割合が増えるというものです。
言い換えればこの達成割合を少しずつ広げて行くことが精進であり、決して一晩で達成されるようなものではないのです。
本文では私達は物事の背後にある因に私達の関心を向け、心をその源泉の中に解き放てと説いています。即ち、想念・印象が飛び交う因の世界に関心を向けよとしているのです。とかく私達は目の前の事柄や自らの身体状況に自分の関心を奪われがちですが、著者はそれに代わってもっと奥底の因の世界に自らの関心を没入させよとしているのです。目に見えない創造主への信頼こそ最重要課題とすべきなのです。
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