ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 4章 段落368 [2020-03-13]

368 Other students will grasp one statement that does not coincide with their preconceived ideas, and shut their minds to the rest They will judge this idea according to their own knowledge of the subject, or compare it with some thought possessing a slight similarity. In so doing, they cut off the natural sequence being presented by the lecturer, and at the end of the session they generally find themselves decidedly confused over what has been said. Of course, they lay the blame at the door of the speaker-not to their own mental reactions.

368 他の生徒達は自分達が描いたアイデアと一致しない一つの発言を捉えて、その残りの話に心を閉ざすことでしょう。彼らはそのテーマに関する自分達の知識に従い、このアイデアに対し裁きを行うか、あるいはわずかな類似点を持ついくつかの想念と比較することでしょう。そうすることで、彼らは講師によって提起された自然な一貫性を切断し、授業時間の最後には、彼らは大抵、自分自身が明らかに語られたことに対して混乱していることに気付きます。もちろん、彼らは自分達自身の心の反応に対してではなく、講師のせいにするのです。

【解説】 本項も若い頃経験したものです。授業の中のあるべき学生の姿勢について警鐘を鳴らすものです。 確かに講義の内容について、自分自身で吟味することは大切なことですが、それを講義の中で行うべきではないということでしょう。むしろ講義する教師がどのような想いの流れの中で話をしているのかについて、しっかりつかんで置かないと結局、講義から得るものが無くなってしまうというものです。先ずはしっかりその流れをつかむことが重要です。 想念・印象の感受についても同様で、やって来るインスピレーションについて、それら想念の流れや関連性を理解しようとうしながら、先ずは一連のビジョンを把握すべきなのでしょう。その上で、これが私達にとってどのような意味を持つのかを考えるべきなのです。その感受した印象の意義について思考すること、それが真の"reasoning"ということだと考えています。

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