ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 2章 段落041 [2018-10-17]


041 (In my references to the animate and inanimate phases of manifestation, I am using the words as we understand them. In reality, these divisions do not exist; for all expressions of life are active. )
041 (私の前述の創造における生物と無生物の各状態に関連して申し上げれば、私はそれらの言葉を私達が理解している通りの意味合いで用いております。しかし、実際にはこれらの区別は存在しません。何故なら全ての生命の表現は活動的であるからです。)



【解説】
実際、与えられた生命を謳歌し恵みを享受しているという意味では生物、無生物の区別は出来ません。以前、著者アダムスキー氏は原子に知性があり、記憶が保持されると示唆していましたが、私達が分類する生物・無生物のいずれも、同じ原子・分子を構成要素としており、両者の間の差異はないということでしょう。
ここで私達日本人の特性について、少し触れたいと思います。それは最近は人型ロボットが私達の生活に入り込みつつあり、おそらく将来は家事の手伝い等を担えるまでに進化するものと思われます。そのロボットに対して、私達は相棒として接することが想定されます。しかし、私達日本人の感性は古くからポンプその他の大型の機械に名前をつけて親しみ、手入れをすることが保全作業の基本として来ました。しかし、これについては、機械は保守点検などせず、壊れて止まるまでこき使うという考えも世界的には多いものです。
もともと私達日本人の感性として、品物や個別の機械に愛着を感じ、あたかも生物体のごとく接して来た背景には、本項のような無生物に対して区別なく、万物に神宿るの理解があるのではないでしょうか。



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