ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第09課 段落346 [2018-02-15]


346 There are two avenues of impressions. Those from abnormal or carnal cells created by the mind of distorted nature so well known in this world, and those that come from the normal cells of cosmic nature that give a constant feeling of elevation. The doors to both are open for manifestation and they permeate all space like the television and radio waves do. We live in the sea of them and it is up to the individual to make the choice of which ones he wants. If we want a war picture depicting misery we can tune into that type and live in that environment. Or we can choose a program of beautiful melodies or a performance of kind deed and enjoy that environment. One is of noble life and the other is of abnormal life. And we must remember that all of this is taking place in the sea of life. And we have been given a free will to choose which environment we wish to live in. I do not mean that we should ignore the abnormal actions of any phase. For if we are to know life from its lowest expression to its highest potential we must observe all actions. Then we will understand the cause back of them, observing the law of action and reaction - cause and effect. But we do not have to become the actors. We can watch a prize fight and not become a fighter but we can see how the human mind operates. When we can do this we are better equipped with knowledge and aware of the type of impressions that come upon us which could take over. This is where wisdom begins.
346 印象の経路には二つの道があります。この世の中ではあまりに良く知られているねじれた性質の異常細胞群、即ち肉欲細胞群から来る経路(訳注:複数)と常に高揚する気分にする宇宙的性質の正常細胞群からくる経路(訳注:複数)です。現出に向けての扉(訳注:複数)は両者ともに開いており、それらの印象はテレビやラジオの波のように全ての空間を通過しています。私達はそれら(訳注:印象)の海に生きており、自分がどれを望むのかを選択するのは各自に委ねられています。もし私達が悲惨さを描く戦争の映像を求めるなら、私達はそのタイプのものに同調出来ますし、その環境に生きることが可能です。あるいはまた、私達は美しいメロディーの番組か親切な行為のふるまいを伝える番組を選択し、その環境を楽しむことも出来ます。一方は高貴な生涯であり、他方は異常な生涯です。そして私達が覚えていなければならないのは、この全てが生命の海の中で起っているということです。また、私達はどちらの環境で生きたいかを選ぶ自由意志が与えられています。私は如何なる側面の異常な行為であっても無視すべきと言っているのではありません。私達が生命をその最低の表現から最高の可能性まで理解しようとするなら、私達は全ての行為を観察しなければならないからです。そうすれば、私達は作用と反作用、原因と結果の法則を観察することによって、それらの背後にある因を理解することになるでしょう。しかし、私達はその行為者になる必要はありません。私達は懸賞試合を観戦することが出来ますが、選手にはなれません。しかし、人間の心がどのように働くかを見ることは出来ます。これが出来れば、私達は私達にやって来て自分を支配しかねない印象のタイプに関する十分な知識を身に付け気付くことが出来るようになります。これが知恵の始まりです。




【解説】
私達は生命の海に生きています。そしてその中には私達自身が作り出したものも含めてありとあらゆるレベルのものが存在し、それぞれの因果応報の道を辿っているということでしょう。もちろん私達はそれら様々な渦中にある訳で、おそらくはその中で翻弄されて生涯を閉じる人生を送っているのではないでしょうか。
これらに対し、本文では明確に私達がとるべき態度を示しています。それが「私達は全ての行為を観察しなければならない」ことと、「しかし、私達はその行為者になる必要はない」というところがその要点です。
あたかも舞台で様々な演劇が演じされるように、私達は身の周りを含めあらゆる状況をありのままに観察し、その内容を学習して自身の知恵にしなければなりません。その観察を通じて学んだ想念や心の作用についての事柄を自身の生き方に活かすことが重要です。それら経験を積むことが知恵を蓄えることに繋がるという訳です。


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