ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第08章 段落087 [2016-01-07]


087 We have looked upon ourselves as a five sense being possessing the attributes of sight, hearing, taste, smell, and feeling or touch. We have drifted along idly contenting ourselves with this analysis of our makeup, but recently we have become quite curious to know just how these senses work and what they are. In our seeking we have run our craft upon a rock. We have been unable to account for certain elements of action which we have encountered in our daily lives and so to relieve the tension of this uncertainty some of our most learned theorists have endowed us with a sixth sense. To this added sense has been attributed all the phenomena that have been unexplainable in the five sense man. In fact there have been those who have sought to add a seventh sense. The mortal mind seems to have a faculty for complicating that which is very simple and thereby creating confusion instead of understanding.
087 私達は自分自身を、視覚、聴覚、味覚、嗅覚そして触覚ないし感触の5つの感覚の属性を持つ存在として見なして来ました。私達は私達の成り立ちをこの分析で無益に満足したまま漂って来ましたが、最近になって私達はこれらの感覚の作用がどのように行なわれるか、またそれらは何であるかについて大いに知りたいと思うようになりました。私達のこの探求の中で私達は自らの乗り物を岩に乗り上げてしまいました。私達は私達の日常生活の中で出会ったある種の行動の要素を説明することが出来なかった訳であり、この不確かさの緊張を和らげるために、私達の最も学識のある理論学者達は私達に第6番目の感覚を授けたのでした。この付け加えられた感覚に5つの感覚の人間となる説明不可能な全ての現象が割り当てられました。本当は第7番目の感覚を追加した人達もいたのです。死すべき人間の心は、とても単純な物事を複雑にする才能があるようで、これにより理解の代わりに混乱を創りだしています。



【解説】
私というものが単に感覚器官から成り立っているとする考えには、もちろん無理があるという訳です。確かにこれら肉体に属する感覚に多くの部分を依存していることは確かですし、その証拠に視力を失った方や、聴覚をなくした人は不自由な生活を強いられることになります。
しかし、これら人間のいわゆる五感を失っても、人間としての本質は何らの差もない訳で、人体で時々刻々紡がれる生命活動には何ら影響はありません。
一方、私達の心の中の動きはどうでしょうか。これら感覚の意見が大勢を制しており、本来の宇宙からの想念・印象の入り込む余地がない状況ではないかと思われます。私達の心にもっと様々な情報が入れるように拡げること、より精妙な想念・印象を受容出来る体制が必要です。
実際には、日常生活の中でも、多くの想念・印象が活躍して人生が成り立っているように思いますし、これら想念・印象を受容する機能を単なる感覚の一種と捉えるべきではありません。肉体細胞の分子・原子レベルに存在する知性の一つとして捉えなければならないのです。


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