ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 3章 段落336 [2015-06-11]


336 True clairvoyance is merely the ability to direct the attention of the real Self without producing a state of concentration, and to relax the sense-mind of the body to the point where it is open and sensitive to all impressions. The recognition of any particular personal feeling will automatically interfere with the incoming vibration. If, at the moment of contact with a specific impression, the recipient allows his interest to dwell upon it impersonally, all knowledge pertaining to that impression will reveal itself; because the facts are related and cannot be separated.
336 真の透視とは集中状態を作り出すことなく真の自我の注目を導き肉体の感覚心を開放的であらゆる印象に鋭敏な所までリラックスさせる能力に過ぎません。如何なる個人的なフィーリングもそれが感知された場合には、自動的に流入する振動を妨げてしまいます。もし、ある特定の印象と接触した瞬間、受信者が自らの関心を非個人的にそこに宿ることを許すなら、その印象に関連する全ての知識が自ずと明らかになるでしょう。何故なら、事実は相互に関連しており、引き離されないからです。



【解説】
もちろん本項の記述内容全てを現在の私達が理解出来る訳ではありませんが、著者の説く言葉の断片から、私達が気付くべき事柄も多いように思われます。
その一つが著者は印象の受信に関し、私達は「真の自我(the real Self)の関心を向けさせる」ということ、また一方では「肉体の感覚心は開放的に保つ」と述べている所があります。「テレパシー」講座以降、アダムスキー氏はこの「真自我」を「意識(consciousness)」という表現に変えていますが、大事な所は「真自我(意識)」と「感覚心」を明確に区別して取り扱っている点にあります。
即ち、先ずは自分の意識を対象に向けさせるというように積極的に意識に働きかける一方で、感覚心に対してはあくまで受容的に留まることを求めている点に注目したいものです。以前から述べられているように、目、耳、舌、鼻に捉えられる範囲はほんの表層のみであり、如何なることがあろうと既存の感覚には限界がある訳で、それらの経験を拠り所にする感覚心にはもはや発展性は無いということでしょう。それに対し、「真の自我(意識)」はひとたび印象の世界を知れば、たちどころに新しい可能性が広がって来る大きな意義を持つ存在だという訳です。


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