ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 2章 段落295 [2015-04-07]


295 The basic vibration of any form is a constant thing; otherwise, the cell would not always reproduce its kind. But so far as the cell's activity and capability of transmitting impressions is concerned, it is unlimited in a relative, or natural state. It is this relative activity with which we are dealing in the study of telepathy; and it may be referred to as the sympathetic vibration. This sympathetic vibration can be demonstrated by using two violins exactly attuned. When we pluck the string of one, the other violin will respond in the same key. A similar experiment may be performed with ordinary drinking glasses, but these are limited in their vibratory range.
295 如何なるものもその基本的振動は不変のものです。さもなければ細胞はいつもその種を再生産できなくなるだろうからです。しかし、細胞の活動に関する限り、また印象を伝達する能力に関する限り、それは相対的あるいは自然の状態としては制限がありません。私達がテレパシー学習で取扱っているのは、この相対的な活動なのです。また、それは共感的振動と表現されるかも知れません。この共感的振動は正確に調律された二つのバイオリンを使って実証することが出来ます。私達が弦の一つを弾くと、もう一つのバイオリンが同じ音で呼応します。同様な実験が普通のコップについて行われるかも知れません。しかしこれらはその振動範囲に限られているのです。



【解説】
細胞固有の「振動」については、今日の科学レベルではDNA等の遺伝分子に対応したイメージを著者は述べているものと思われます。また、その一方で各細胞にはそれとは別の感受性を有しており、「相関性」についてはそれが自然の状態、即ち互いに相互関係を有する中で成立する状況の中の活動の一つであることをイメージしているものと思われます。
また、想念・印象の感受の特徴については、著者は「共感」(sympathy)であると説いています。同じ場所、同じ状況下にあっても想念・印象を受け取ることが出来る者、出来ない者との間にある差異は実にその者の持つ共感性の違いということです。いわゆる無神経と称される者には相手の心情に対して共鳴するところが無いのです。その延長上には想念レベルにおいてもそのような波動に何ら同調する要素が無ければ、気づくことが出来ない訳です。
各自、感性を磨く為には、どうするかが次に問われることになります。人によっては長い道程になるかも知れませんが、自身で同様な経験をすることで初めて相手の心情も理解出来るようになるものと思います。私達は更に、人間ばかりでなく、他の動物や植物、更には鉱物に至るまで、様々なものの心境を推し量る努力が必要だと思っています。そして、その先には、森羅万象、ことごとく神宿るの心境に到達するものと思われます。

【追記】
実は、本文の「相対的あるいは自然の状態として」(in a relative, or natural state)という表現については、本講座の独特な表現であると感じていました。それ故、「解説」部分では、私なりの解釈を述べたつもりです。
これと期を同じくして、今読んでいる「The gospel of Mary of Magdala(マグダラのマリアの福音書)」(by Karen L. King)の中のイエスの言葉にこれと似た表現があったのには驚きました。この本はいわゆる聖書外典の一つです。1896年にカイロで発見され、5世紀頃のパピルスにコプト語で記されたもので、残念ながら断片でしかありません。その後、ベルリンの博物館に収蔵され、出版の計画もあったようですが、戦争の為、断念。その後、1983年には同じ福音書の断片が今度はギリシャ語で記されたものとしては発掘され、3世紀頃のものと推定されていることが分かっています。
さて、本題は、そのわずかに残るイエスの言葉の中に、以下の記述が伝えられていることです。
「The Savior replied, "Every nature, every modeled form, every creature, exists in and with each other. They will dissolve again into their own proper root. For the nature of matter is dissolved into what belongs to its nature.."」(救い主はこう答えられた。「あらゆる自然、あらゆる形作られたもの、あらゆる創造物は互いの中と互いと共に存在します。彼らはいつか再びそれ自身の根源に溶け込むことになるでしょう。何故なら、自然界の物質はその自然の属するところに溶け込んで行くからです。」)
私がはっと思ったのは、上記の「 exists in and with each other」(互いの中と互いと共に)という表現です。本項(295)の"in a relative, or natural state"と大変似た表現であることには、驚かされます。また、イエスの述べられていることは、一連のアダムスキー氏の著作と同じ雰囲気を持っていることにも気づきました。
アダムスキー氏がイエスの高弟であったとはよく聞く話ですが、この「マグダラのマリアの福音書」に残る断片から分かるように、実は私達は遠くイエスの時代にまで遡った勉強を今しているところが大事なところです。


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