ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 1章 段落020 [2014-02-05]

020 There is nothing mysterious or unknowable about this means of thought-transference, for man lives by it daily. A thought cannot be given audible expression without first being formulated in the mind. This is automatic with the average person, and he is usually quite unconscious of the fact that his mind is (1) directing every outward movement of his body; (2) composing and arranging his thoughts before giving them audible expression; (3) receiving a continuous flow of thought-impressions from the outside. From this continuous flow of impressions the undeveloped mind rejects all that is not familiar, and retains only those thoughts which confirm the opinions his mind has already formed. That is why, until man understands himself, he is guided only by the world of effect.

020 この想念移動の手段について何も神秘なものも未知なることもありません。何故なら人は毎日それによって生きているからです。想念は心の中で最初に組み立てられることなく、聞き取れる表現を与えられることはありません。これは普通の人間では自動的に行われており、人は普通は自分の心が、・肉体の外向きのあらゆる運動を指揮し、・自らの想念を聞き取れる表現にする前に組み立て整理し、・外界から絶えず流れ込んで来る想念−印象類を受信しているという事実について全く意識しておりません。この連続した印象の流れの中から、未発達の心は馴染みのないものは全て拒絶し、代わって自分の心や既に作り上げた意見類を確証する想念類のみを保持します。それが人が自分自身を理解するまでは結果の世界によってのみ導かれる理由です。





【解説】

ここではテレパシー能力そのものも含めて、私達の心というものがどのような作用を行っているか記されています。

本文に明示されているように、私達の身体各部を動かす指令を与えるのも心ですし、印象を整理して音として想念を表現するのも心であり、更には外部から想念を受信するのも心だとしています。

つまり、私達の心は未だ言葉として表現される前の印象の段階からその取扱いに関与しており、心が受け入れたくない想念や馴染みのない印象類は排除している所が重要なポイントです。

心が本来、何を頼りにすべきかを自覚できない為、このような精妙なる印象の世界よりは心が確実だと信じる結果の世界、その印象が表現された後の世界に拠り所を見出そうとする訳です。

しかし、このことについては皆様ご承知の通り、仏教では結果の世界は移ろい易く空しいものだと説いています。最近読んでいる本の「無量寿経」の話が出ており、そのお経の中に「波揚無量自然妙声 随其所応 莫不聞者 或聞仏声 或聞法声 或聞僧声 或寂静声 空無我声 大慈悲声 波羅蜜声」というくだりがあるそうです。この中の様々な「声」を聞くとあるのは、本項でいる「印象」、テレパシーを示唆するものと思われます。ちなみに「その声を聞くところにかなって歓喜すること無量なり」とするところが、お経の名前の由来かと思われます。


第1部 1章 段落019 [2014-02-04] <<  |  >> 第1部 1章 段落021 [2014-02-06]