235 The story of the Prodigal Son in the Bible gives us a good insight as to what must take place. The mind of the prodigal son is a portrayal of all minds. For he, after deciding to return, had to humble himself and cast aside all of his pride, willing to face whatever might come. Knowing full well that some of the household would point fingers at him and remind him of his bad deeds. Yet he knew that their life was not his life. And they had not had the experiences he had gone through, even though they may have had similar ones. Knowing all of this he was still determined to conquer the will of his mind and return to the will of his real self - the consciousness - the Father of all forms.
235 聖書の中の放蕩息子の物語は私達に何が為されるかについて良い洞察力を与えています。放蕩息子の心はあらゆる心を表わす肖像画です。彼が家に戻ることを決心した後は、如何なる事態が来ようとも喜んでそれに直面し、自分を謙虚にし、自分のプライドをことごとく脇に捨てなければならないからです。家の中のある者は彼を指差して彼の悪事を彼に思い出させることも十分知ってのことです。しかし、それでも彼はその者達の人生は彼のとは異なっていたことは分っています。そしてその者達が彼と類似した人生であったとしても彼が通った体験はしなかったであろうこともです。これらの全てを知った上で、彼はそれでも自己の心の意志を克服し、彼の真の自己、意識、万物の父の意志に戻ることを決心したのです。
【解説】
日本語では「放蕩息子」と訳されてきた"Prodigal Son"の"Prodigal "には「浪費」の意味合いがあるということです。つまりは与えられた資源(環境)を長年浪費して来た人間という意味も含まれている訳で、環境汚染はその代表例かと思います。私達は与えられた環境や時間を浪費したまま今日まで、生命の源である「意識」の元に帰ろうとして来なかったということです。
日本語には「改心」という表現がありますが、真に心を改めて生命の源に帰依することが求められています。その為には一人一人の揺るぎない決心が必要で、これまでの悪事や浪費を認め、文字通り心を入れ替える必要があるということです。
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