ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第02課 段落050 [2012-03-15]

050 Jesus said a double minded man is unsuitable in all of his ways. And it is double minded when one sense likes something and the other does not. So Jesus urged man to be single minded in all of his ways. In other words unite all four senses for the purpose of service and not judgment. And this can only be done by conscious guidance. For in consciousness there are no likes or dislikes, it understands the purpose for all manifestation but the mind does not. All manifestations are conceived in consciousness and born into the world of effects. Just as the mind was conceived in consciousness and born as an effect of that conception. This is why it is so easy for the mind to guide itself by effects. And not having the knowledge and the reason for all of the effects it passes judgment in either likes or dislikes.

050 イエスは二心ある者は全ての道において不向きだと言いました。そしてひとつの感覚がある物を好み、他の感覚が好まない時、二心となるのです。それゆえ、イエスは人に全ての道において心一つになるように求めたのです。言い換えれば、裁きではなく、奉仕の目的の為に4つの感覚を統合せよということです。そしてこれは意識の導きによってのみ為され得るのです。何故なら、意識の中では好きとか嫌いとかが無く、全ての創造物(注:manifestation)にとっての目的を理解していますが、心はそうではないからです。全ての創造物は意識の中ではらまれ、結果の世界に生まれて来ます。丁度、心が意識の中ではらまれ、その結果として生まれるのと同様です。これが心が自分を結果によって導くことをそのように容易になる理由です。そして心は結果物の全てについての知識や理由を知らないが故に、好き嫌いの判定を下しているのです。





【解説】

自身の中でも意志がふらついていては、実行力はありようもないのです。「二心ある」者についてのイエスの教えは、本講座にとっては心の中の各感覚の意見の衝突として描かれています。つまりは、基本的な学習事項は2000年前と何一つ変わらないとも言えるでしょう。

この間、私達は、何度かこれらの教えの深遠な要素を学ぶチャンスがあったのでしょうが、再び、この学習コースの中に復活することが出来たという訳です。

一方、私達の心は何故、迷いがあるかについては、因なるもの、創造主や意識の存在等、目に見えず形を持たない存在に信頼を置いていないことが挙げられます。これは本文にあるように、私達の心自体が肉体の感覚という、より肉体(即ち結果)に近い要素である為、結果(現象)に親近感が強く、因に属する存在については、よほど学習しないと、認識できないことに由来するものと思います。

その結果、その行動によってもたらされる結果が確認されない以上、リスクを伴う行動は起こしたくないのです。しかし、そのような状況では「二心」は生じるとしても、物事を実現させる創造力ある力は発揮できません。私達はこれら心による抵抗や心の中の葛藤、恐怖心を捨てて、因の指導に従った行動を積極的に起こすことによって、体験を増やし、その法則性を学ぶ必要があるのです。


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