ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第01課 段落005 [2012-01-11]

005 As we cannot see the Creator the God of the Cosmos in person, we then must study Him through His creation. And this manifests in what we refer to as nature, for it is the embodiment of His Supreme Intelligence.

005 私達は創造主、宇宙の神を個人的人物として見ることはできない以上、私達は創造物を通じて創造主を研究する必要があります。そしてこの創造物は私達が自然と呼ぶものの中に現れているのです。何故なら自然こそが創造主の最高英知の体現であるからです。





【解説】

ギリシャやローマの時代、あるいはそれ以前の文明においては様々な名称を持つ神々が設定され、その神々の名が当時の神殿や街路に建立されました。古来から私達は創造主の存在を感じ取っていたと言うことが出来るかも知れません。しかし、このような偶像に囚われ、その像のみに私達の気持を込めることは果たして妥当と言えるでしょうか。この答えは是でもあり、否でもあるのです。

つまりは初学者に創造主の偉大さ、優しさを伝えるには芸術家が描いた(或いは彫った)神の像が有効ですが、それが行き過ぎて本尊への寄進によって自分の罪が許されたり、その本尊のみが力を持つ存在とするのは誤りということでしょう。

一方、これに対し、ことごとく偶像を排するイスラムの場合ですが、先日トルコに行った際の感想としては、私達仏教徒の日本人としては、何か今ひとつ物足らない感じがありました。全くの私見ですが、イスラム以前の各宗教が多くの偶像を拝していたこと、その弊害に対する反省の意図もあったのではないかと考えます。イスタンブールのアヤソフィアという今日ではモスク、以前はキリスト教寺院に残る壁画も国王がキリストにひざまずく等の壁画が描かれており、何か権威を主張するための宗教画であるように思えたからです。

創造主への想いや感謝というものを向ける対象として、私達にとってはより人に近い創造主像を求めかちです。現に宇宙兄弟達も各宇宙船や家庭にそのような絵画が掲げられていると私達は聞いています。それは私達人間が創造主の似姿に造られていることにも根拠があるものと思います。

とは言え、私達にとって真の意味で創造主を知る為に、本文では創造物を通じて創造主を探求せよと解説していることに注意したいものです。各自にとって自分自身も含め、身の回りの人間や草木から足元の小石に至るまでそれらがどのような構造、仕組みによって存在しているのか、あるいは長い年月の間にどのような分子原子が集まってそのような形あるものに集約したかについて、研究しながら、創造主の意図を学ぶ姿勢が重要だということです。


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