ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第18章 段落200 [2011-10-18]

200 Their architecture and works of art were magnificent in structure and beauty. Their temples were not so much for worship as they were a monument of beauty dedicated to the All-Power whom they served in their daily actions. For these ancient people needed no temple in which to worship - they recognized the All-Being dwelling in themselves and in every form of life upon the earth. Their idealism in the beginning was the virtue of God which was meant to be expressed in man, and because of this idealism they were bestowed with powers unknown to man today. The Lemurians did not abuse or misuse the laws of nature and while they were building up their empire it was an actual heaven upon earth. But like practically all civilizations they had their downfall in time. Virtue became lost in greed and selfishness, and towards the end of their existence they were no different than the present civilization. At last nature took a hand and sunk the land beneath the waters of the Pacific ocean.

200 彼らお建築と美術作品は構造や美しさにおいて壮麗なものでした。彼らの寺院は彼らが日常行動において仕える全能者に捧げられた美の記念塔であった為、拝礼の為ということではありませんでした。何故ならこれら太古の人々は中に入って拝礼する寺院は必要無かったからです。彼ら自身及び地上のあらゆる生命体の中に全能者が住んでいることを認識していたのです。初期における彼らの理想主義は人間に表現されるべき神の徳目でありましたし、この理想主義により、彼らは今日の人間には知られていない諸々の力を授けられていました。レムリア人達は自然の諸法則を乱用したり誤用することはありませんでしたし、彼らがその王国を建設している間、それは地上における本当の天国でした。しかし、実際には全ての文明と同様、やがて没落の時を迎えました。徳目は利己主義の中に失われ、彼らの存在の終り近くには、彼らは今日の文明と何ら変わりなくなりました。遂には自然は手を挙げてその大陸を太平洋の水の下に沈めたのです。





【解説】

ここで述べられているレムリアの寺院については、今日の寺院とは随分と異なるものであることが示唆されています。寺院は通常、本堂の中央奥に拝礼の対象物が祀られています。これは仏教寺院の例ですが、キリスト教会の多くも同様な形式だと考えています。

一方、日本の神社は何故か様子が異なります。拝殿の中には自らを写す鏡がある他は、拝礼の対象物となるものはありません。従来、神道の説明としては、あらゆる物に神宿る中、特別な像など作ることは出来ないとされて来たように思われます。しかし、もし、本文にあるように私達自身の中に全能者が住んでいることを古来の日本人が熟知していたとすれば、神社の社殿は単に心を落ち着けて自然・万物に祈る場としていたのかも知れません。レムリアの文化を私達日本人が引き継いでいるかどうかは分かりませんが、祈りの像を必要としない日本神道は、何か本項の記述に近い要素があるように思います。

さて、もう一方の文明の没落についてですが、現代文明がレムリア最期の頃と似ているとする点についても要注意です。著者アダムスキー氏はこの文明の行く末についても暗に懸念を示していると見るべきでしょう。


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