ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第08章 段落096 [2011-05-12]

096 When that feeling is no longer playing upon the senses they lie inert like the muted strings of the violin after the consciousness of the musician is withdrawn to another channel of service.

096 諸感覚に対して触覚が作用しなくなると、諸感覚は演奏家の意識が別の奉仕の経路に引き上げられた後にそのバイオリンの沈黙した各弦のように不活発になったままになります。





【解説】

アダムスキー氏の言う"Consciousness"は日本語では「意識」という概念が相当するとされて来ました。この意識という言葉について、日本語では、生き死にの境の重要な要素として「意識があるか否か」として、あるいは「自意識過剰」や「意識的に」という具合に用いられて来ました。よく言われるのは、例えばジムのトレーニング等では、コーチは鍛えたい身体の特定部位を「意識して」トレーニングを行うことを奨めています。

また、この「意識する」という点については、自分の気持あるいは関心の集中物のようなイメージもあるのではないかと考えます。そういう意味では、意識は自分の自由に動かせますし、距離に関係なく自分が思った瞬間に移動させることが出来ます。この意識については、自分の身体については触角の要素を媒介としているものと思われますが、身体外の空間についても、その移動範囲を広げることが出来るものと考えています。

とかく私達は言葉に引きずられますが、大事な点は著者がどのようなイメージとして、その言葉を用いたかを理解することです。演奏家が楽器を手にとって具体的にその持つ知性を動員して演奏すれば、楽器はそれまでとは異なり、生き生きとした音色を発しますが、それは演奏者がいわばその意識を楽器に吹き込んだとも言えるでしょう。このように意識という概念は、気持の本体とも言えるような、また触覚に似た存在として認識出来るのではと思っています。


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