ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 4章 段落366 [2010-11-05]

366 In the preceding illustration we may safely say that after a certain point, reasoning was not used at all. When this hap-pens it is usually due either to an untrained will, or to just pure mental laziness. Admittedly it is a ludicrous example, but similar examples on a smaller scale occur in our lives daily. Controlling the reasoning mind is what we meant when we spoke of "stilling" it. If we will make it our servant rather than our master, we will not put rockers on our baby carriage of life.

366 前述の事例では、ある時点以降、推論は全く使われていなかったと言えると思います。このようなことが起る時は、大抵は訓練されていない意思であったり、単に単純な心の怠慢のどちらかが原因です。前述の例は明らかに滑稽な事例ではありますが、同様な例は私達の生活の中ではより小さな規模で日々起っているのです。推論する心を制御するということは、私達がそれを「鎮める」と表現する際に意図するものです。もし、私達が心を主人としてではなく、召使にするようになれば、私達は人生の乳母車に揺れ足をつけるようなことはなくなるでしょう。





【解説】

心が興味本位にあれこれ関心を放浪させることが、多くの物事を成就させない大きな原因となっているものと思われます。本来の心の推論機能としては、一連の想念の関連性をじっと観察し、妥当なものかをチェックする役割を持っている訳ですが、とかく心の関心は外に向きたがり、興味あるものに移って行きたいと思っているのでしょう。現代で言うネットサーフィンもこうした事例の一つです。

一方、元来のチェック機能を果す為には、心自身は静かに全体を見渡せる状態であることが必要で、心自身の意思をあまり強く持っていては、そうした観察は出来ないことになります。

心が主体となった行動ではなく、心はより高次なる想念(印象)の召使として、所定の任務を果すことで本人の人生の価値を高めることが出来ると言っているのです。


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