ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 1章 段落249 [2010-05-06]

Part  V

CHAPTER I Control of the Ego

249 In olden times, teachers of philosophy demanded strict adherence to certain disciplines of body and mind before they would accept a pupil. They did this because they knew that if a man could not control his sense mind and body-habits, he was not yet ready to receive higher instruction. Some great teachers demanded a five-year period of absolute silence from the pupil before they would even consider the possibility of instructing him. This may seem drastic to us today, yet it served a two-fold purpose. The student learned self-control through not being able to participate in conversation around him; and the enforced role of an impartial listener made it possible for him to study and evaluate both sides of every question.

第3部

第1章 エゴを統制すること

249 古くは哲学の教師達は弟子を受け入れる前に肉体と心についてある種の訓練に厳密に従うことを要求したものです。教師達は、もしその者が感覚心や肉体の習慣を統制できなければ、より高次な教えを受ける準備が出来ていないことを知っている為、そうしたのです。偉大な教師の中には、その弟子を教えられるかを考える前に、その弟子から5年間の間、全くの沈黙を課した教師もいました。これは今日、私達にとっては過激に見えるかも知れませんが、それには二重の目的があったのです。弟子は自分の周囲の会話に参加出来ない為に、自己統制を学びましたし、また隔てない聞き役としての強いられた役割によって、すべての問いに対する両方の側について学び、評価することが可能となったのです。





【解説】

「テレパシー」が3部作になっている理由は、今となっては知る由もありません。原書では3册の冊子に分かれたものとして自費出版されています。勝手な想像では、後年の「生命の科学」のような講座をイメージして執筆された可能性もあるのではと考えています。つまり、本書は単なる読み物として取扱うべきではなく、各部各章を各学年の教科書のように取扱うべきことを意味しています。

また、一方で、第3部に入ってエゴのコントロール(統制、制御、支配)について章を設けている点に、この問題の重要度が表れている気がします。本来は、講座のはじめの心構えとして述べられても良い内容ですが、ある程度の知識を授けた後、再びこの問題を取り上げること自体に、このテーマの難しさがある訳です。そして、ジグゾーパズルと同様に、全て一から整然と理解して行くことは、一見にして心にとっては分かりやすいのですが、現実には理解した部分毎にイメージが出来上がる訳で、その要点毎に基本に立ち返る必要があるということでしょう。

本項について、著者アダムスキー氏は具体的にその教師として誰をイメージしていたのかは知られていません。内容からは仏教の「無言の行」のイメージかと思います。伝えられる所では、アダムスキー氏は幼年期にチベットで学んだとありますが、その内容も氏が体験したことをここに記述している可能性もあります。いずれにせよ、私達は再度、自分自身のエゴをコントロールすることが求められているのです。


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