ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第2部 3章 段落188 [2010-01-25]

188 We are given a good illustration of the tangibility of these emanations when we walk into a room where two people are quarreling. Upon our entrance the quarrel will stop abruptly, and both parties will turn to greet us with a false heartiness. Though they are trying to pretend that everything is normal between them, their eyes will still be bright with anger and their features tense, making their smiles appear fixed. And as we cross the room, the atmosphere around us will be vibrant with the strong thoughts of wrath. All present will be acutely embarrassed until the participants are able to bring their emotions under control. Unless the animosity between these two people is deep-rooted, the atmosphere will clear and a feeling of friendliness will return. However, regardless of how carefully they try to cover their true feelings with polite conversation, if the enmity between them continues under the surface, we can become aware of it through the feeling channel.

188 私達にはこれら発散物についての明白さについて、二つの人々の集団が言い争っている部屋の中に入って行った際の良い実例があります。この場合、私達が入るや、その口論は突如止まり、両集団は偽りの愛想で私達を歓迎するでしょう。彼らは彼らの間に何も変わったことはないように装いますが、彼らの目は怒りに燃えており、表情は厳しく、その微笑みはこわばっています。そして私達が部屋を横切って見ると、私達の周囲の空気は強烈な激怒で震えるでしょう。同席の者全員が、彼らの感情が制御できるようになるまでは、ひどく困惑させられることになります。二つの人々の間の敵意が根深いものでなければ、その空気は澄んで、有効のフィーリングも戻って来ることでしょう。しかしながら、彼らが丁寧な会話で自分達のフィーリングを如何に注意深く隠そうとしても、彼らの間の敵意が表面下で続くなら、私達はそれをフィーリングの経路を通じて感知することが出来ます。





【解説】

個人的にはこのフィーリングの経路を通じてやって来る印象類について、未だ所要の能力を持ち合わせていない為、読者の皆様に十分な解説をお伝えすることは出来ません。通常、私が印象を感じる場合、大抵は目でその対象を見て、(即ち、既存の感覚器官でその対象物を観察して)、対象を把握する際に、何らかの印象を受けることが多いように思われます。未だ、既存の感覚器官を一切、頼りとせずに、対象物の発する「発散物」を印象の経路から感受する段階には至っていないようです。

しかし、経験上明らかなのは、人間が発する感情については、自然界の生物には容易に感知できることです。恐らく、人間が発する感情は私達が想定する以上に強烈なパワーを持って四方に発散しているものと思われます。その良い例が、窓越しに野鳥を観察する場合に経験できます。窓越しに遠くの小鳥を優しく観察する場合は小鳥達は伸び伸び遊んでいますが、反対に試しに遠い窓越しでも害を与えようと狙いを定めて小鳥を見ると鳥達は直ぐに飛び去って行ってしまいます。小鳥達は自分達に向けられた視線や感情を敏感に感じ取ることが出来るようです。


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