ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第2部 2章 段落176 [2010-01-06]

176 Here is another example of how a worried mind affected the body cells to the point of physical breakdown. For twenty years a friend of mine had prided herself on being an immaculate housekeeper. In fact, her home was so "freshly-vacuumed" looking, both family and friends were never quite comfortable in it. While entertaining, she had an annoying habit of watching the ash trays, fairly snatching them out from under cigarettes so she could replace with clean ones. Her every move, every facial expression reflected nervous anxiety, making the atmosphere in the home vibrant with uneasy tension.

176 ここに心配する心がどのようにして肉体細胞を物理的な崩壊点にまで影響を与えるかに関するもう一つの例があります。私の友人の一人は20年間にわたり、完璧な主婦であったと自慢していました。実際には彼女の家は余りにも「真新しく電気掃除機がかけられた」ように見える為、家族も友人達もその中では決して心地よくはありませんでした。楽しんでいる最中でも彼女は灰皿をひったくって新しいのと入れ替えられるよう、灰皿を凝視するイライラさせる癖がありました。彼女の一つ一つの動作や顔の表情は神経質な心配の念を投影しており、その家庭の雰囲気を落ち着かない緊張感でみなぎらせていました。





【解説】

恐らく、「心配」の対極にあるものは「楽しむ」という状況ではないかと思います。元々、心配は物事が先行き危ぶまれるとか、自分の能力に不足があることを危惧する気持です。従って、そこには創造主に対する信頼感は薄れていることになります。よく言われる例に「幼子のように」、あるいは「野のユリのように」と言われますが、いかなる事態にあっても「楽しむ」という気持の中には、創造主への信頼があり、自分自身の生き残りにさほどの価値を設けない潔さがあります。

さて、本項の例は家庭の主婦にはありがちなパターンです。この場合、主婦は家庭を物理的な環境として整えることに専心した訳で、そこにいる人の心についての配慮を怠ったということでしょう。相手の気持を思いやる立ち居振る舞いは、日本では茶道の所作に良く現れているように思います。客と主人が絶妙なタイミングで次々に茶の振る舞いを進め、隣席の客への配慮、主人への感謝等、穏やかな中に行事が進んで行くように思います。客をもてなす真髄は目に見えない所からの配慮や思いやりにあるように思います。


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