ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 3章 段落081 [2009-08-06]

081 Actually, both are right. The eyes did see the man, and the ears did hear the footsteps. If they had been properly coordinated or synchronized, the eyes would have told the ears what they saw, and in place of a flat contradiction, the ears would have accredited the report. When the ears heard the sound but the eyes did not see the man, the eyes, after scanning the hall carefully, would have admitted it was something they did not understand; yet have accepted the information given by the ears. In other words, instead of arrogantly accusing the other of telling an untruth, each would have conceded that they could have been mistaken.

081 実際には両者とも正しいのです。目はその男を見たのですし、耳はその足跡を聞きました。もし両者が適切に連携、或いは同調していたら、目は耳に対して自分達が見たものを伝えたでしょうし、単純な否認の代わりに耳はその報告を信頼に足ると評価したことでしょう。耳がその音を聞き、目がその男を見なかった場合でも、目はホールを注意深く見渡してそれが自分達が理解出来ない何かであることを認め、耳から伝えられた情報を受け入れたことでしょう。言い換えれば、他を嘘を言っていると横柄に非難する代わりに、各々は自分達が誤っているかも知れないことを認めるようになることです。





【解説】

既存の感覚が捉えられない要素があることを認めることが大切だと思っています。未知なるものに対して、各々の感覚が互いに情報を共有しながら、限界があるにせよ、その本質を掴もうとする姿勢が望まれているのです。

一方、現実には感覚器官が取扱う形に現れている現象についての情報と同時に、まだ現実化しない状況下においても「こうした方が良さそうだ」と感じるような印象の把握も起ります。様々なケースにおいて印象を優先させて得た良い結果と、印象に重きを置かなかった為に得た失敗の経験から多くを学んだ後は、ある程度、今後起る状況について自然と感知出来るようになるものです。

その為、既存の感覚器官については、もちろん身体活動の上で無くてはならないものとして大切にすべきことはもちろんですが、それら感覚に依存することなく、宇宙を流れる印象類の目に見えず、耳に聞こえないフィーリングの世界に各自の関心を寄せる必要があるでしょう。鏡の前で化粧に余念のない女性を見てわかるように、既に私達は十二分に自分自身について高い関心を持っており、結果の世界の変化に一喜一憂している訳です。むしろ、既存の物質化する前の段階、即ち原因の世界につながるインスピレーション(印象)の世界からもたらされる情報に重きを置く等、バランスをとった生き方が望ましいと言えるでしょう。


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