ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 3章 段落079 [2009-08-04]

079 The eyes see the man, but the ears hear no sound; therefore, the sense of hearing accuses the sense of sight of giving false information. The man is there, however, but due to their lack of respect for one another, neither the eyes nor the ears will concede that they could be mistaken; so the argument between them cannot be satisfactorily settled.

079 両目はその男を見ているのですが、両耳には音が聞こえず、その為、聴覚は視覚に対し嘘の情報を出していると非難しています。しかし、男はそこに居ますし、感覚同士、互いの尊重が欠けている故に、目も耳も自分達が間違っているかも知れないということを認めようとはせず、その為、彼らの間の議論は満足の行く解決ができないのです。





【解説】

感覚同士が互いに尊重し合わないことが、そもそもの問題だということです。これは個人の間についても言えることです。他人や環境に左右されない自我の確立や独立性等、各自の意志を強くすることが求められる余り、自分の主張を押し通すこと、ディベート(議論)で相手の論点を打ち負かすことが能力が高いとされる風潮も生まれてしまいました。

しかし、このままでは柔和や柔軟さを尊ぶ日本古来の生き方はやがて失われるかも知れません。訴訟社会となれば最終的に裁判で決着が着くまで争えば良いということにもなりかねず、平和はありません。

ちなみに「『和を以って貴しとなす』(聖徳太子の十七条憲法第1条)の和とは「因」と「縁」の出会いの結果を言い、和とは単に仲良くではない。和を大切にするとは因と縁の出会い、つまり因縁の法を厳粛に受けとること。日本仏教の祖といわれる聖徳太子が、その因縁法をふまえて『和を以って貴しとなす』と示すゆえんがここにある。つまり、自己中心の我執、すなわち自己の利益・立場をごり押しするな。また自分たちだけの利益のために、徒党を組んでごり押しするな。「和」を大切に思うなら、因縁法(原因と結果)、すなわち、何故、何故を明らかにするために徹底的に話し合い(議論)をしなさい。ということである。(以下略)」という記事(http://www.dotcolumn.net/blog/index.php?p=66)が出ていました。原因と結果を明らかにしようとする等、「生命の科学」のエッセンスそのものではありませんか。真理は既に、聖徳太子の時代から伝えられて来たことを知ることが出来、嬉しくなりました。

彼ら他惑星人社会では意思伝達はもっぱら印象によるものがほとんどでしょうから、そこに感覚による主張は入り込むことはなく、他惑星人の感覚は各自が生きる上で必要不可欠な存在とはなっていないものと思われます。また一人一人の感覚は十分コントロールされた中にある為、地球人のような極端な感情の起伏を示すこともありません。

これら感覚の反応は死を前にして次第に消失して行く訳ですが、実は既存の感覚が消失するにつれて反対に多くの印象を感受し易くなるように思います。よく死の瀬戸際まで行った者が救命措置によって助かった後で、家族に「実は大変気分が良かった」「美しい景色を見た」等々の話しをする事例がありますが、この臨死体験は今までの感覚の支配が無くなる時に、代わってフィーリングが働き始めて、それまで感受できなかった印象類が一斉に入って来ることを意味しているように思っています。もちろん、私達は日常的に生きている最中において、これら宇宙からの印象を感受することを目的としていることは言うまでもありません。


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