ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第12課 段落456 [2009-03-10]

456 When cosmic conscious awareness is achieved life is understood and all effects looked upon as an expression of Cause Consciousness. So work patiently and diligently and you shall indeed know yourself and all life as a whole. A realization of the beauty of the interrelated cosmic picture as each experience falls into place as a part of your life.

456 宇宙意識への気付きが達成されると生命が理解され、全ての結果が因の意識の表現として見られるようになります。ですから、忍耐強く、こつこつ努力することです。そうすれば貴方は本当にご自身を知り、一つの統一体として全生命を知ることになります。それは一つ一つの体験が貴方の生涯の一部分として収まる、相互に関連付けられた宇宙的絵画の美しさの悟りです。





【解説】

本講座全編を通じていわゆる生物、無生物を問わず、現象ことごとくを貫き支える、宇宙意識と呼ぶものに気付き、自覚することの重要性が述べられて来ました。また一方、それはこのようないわゆる精神面をと物質面から切り離して取扱うことの問題についても述べられて来たように思います。つまり、そこには現象とその奥にある因とを同時に見ようとする姿勢が大事だとしているのです。

また、一方、肉眼で見えないものは容易には認めがたいとすることは、世の常であることは間違いありません。そこで、学習者は各々、積極的に意識に気付こうと努力しなければなりません。自らの生活の中で実践することが求められている訳です。

一口に宇宙意識を讃えよと言っても、時代ごとにその時代状況に合った言葉でその内容は表現されて来ました。万物の支持者を阿弥陀と呼称する時代にあっては、「南無阿弥陀仏」というフレーズが、その最も近い意味を民衆に授けた筈です。ここに一遍上人(1239-1289)が弟子に述べた一節を紹介しましょう。

「それ、念仏の行者用心のこと、しめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏とまうす外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。もろもろの智者達の様々に立おかるる法要どもの侍るも、皆諸惑に対したるかりそめの要文なり。されば念仏の行者は、かやうの事をも打捨て念仏すべし。むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかが申すべきやと問ければ「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚ちをも捨て、善悪の境界をもすて、貴賎高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願う心をもすて、又諸宗の悟をもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、阿弥超世の本願にもっともかなひ候へ。かやうに打あげ打あげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界、皆浄土なり。外に求ぶからず、厭べからず。よろず生としいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずということなし。(中略)ただ、愚かなる者の心に立かえりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏 一遍」(p.22「愛蔵版 一遍上人語録 捨て果てて」坂村真民 著、1994年 大蔵出版株式会社)

善悪や美醜といった人間の心が裁いた基準を捨てて、自然界の諸活動を仏の現れと感じ、より本質の因をひたすら求める姿勢を当時の人々に示したものと言えると思います。


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