ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第07課 段落271 [2008-04-28]

271 The sense of sight is reflecting the effects, but not the life of the effects. It is like the window or mirror. But to have a reflection there must be a cause. So in a way we are half dead, or living only half a life. And Jesus said, let the dead bury the dead. Meaning that the pallbearers bearing the corpse are as dead the corpse. The form within the coffin lies unconscious of life and the ones carrying it are equally unconscious of life in full, or cosmic life. For the corpse lived a mental life as the ones who bear it do and once the consciousness withdraws, the mental is silenced. For it never knew itself as the real part which is the consciousness.

271 視覚は結果物を反映していますが、その結果物の持つ生命は反映していません。それは窓や鏡のようなものです。しかし、映像を得るには因がなくてはなりません。ですからある意味、私達は半分死んでいる、或いは生命の内、半分しか生きていないと言えます。また、イエスはこう言いました。死者をして死者を葬らせよと。死体を担いでいる者も死体と同様に死んでいるという意味です。棺の中の肉体は生命の意識は無くなり横たわっていますし、それを運んでいる者達も等しく満ちた生命、宇宙の生命について意識していません。何故なら、その死体はそれを担ぐ者達同様に心による生活を送って来ましたので、ひとたびその意識が退くと、その心は沈黙させられます。何故なら、心は意識である真実の部分に関する自分自身について知らないで来てしまったからです。





【解説】

目で見ているものがその対象の全てであるとすること、言い換えれば目で確認できればそのものを評価できるとするのは誤っていることを先ず、明らかにしなければなりません。なにしろ、私が見ていると思っているのは単なる自分のレンズを通して映った投影像であり、それは外面的な結果物でしかないからです。この点に対し、イエスはその人生は半分死んでいると称したのです。つまり、私達は目や耳等の感覚器官を窓として、そこから得られる情報で全てを判断し、裁いて来ているのです。そこには、形あるものの内部やその背後に息づく生命の本当の力は反映される筈もなく、ただ自分の見た、聞いた等の感覚器官の性能に依存した人生を送っている姿があります。

そこでイエスは死者を担いでいる者達も、実は死者も同然だと言ったのです。自分の中の意識を対象のそれと一体化し、形有るものの内部に宿る生命力と同調しない限り、本来の人生を送っているとは言えないと言っています。


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