ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第07課 段落270 [2008-04-25]

270 Jesus made the statement, ye have eyes yet see not, and also, the blind lead the blind. Yes, we do have eyes, as your home has windows. And the windows would say if they could speak, through me the forest is pictured. And if I became a mirror I would reflect the forest, but not its life.

270 イエスは、汝は目を持っているが見ていない、また盲人が盲人を導くようなものだと発言(訳注:マタイ15:14)しています。確かに、私達は皆さんの家に窓があるように目を持っています。そして、その窓がもし話すことができたとしたら、私を通してその森が見えるのだと言うことでしょう。そして、もし、私が鏡になったとすれば、私はその森を映すでしょうが、その生命までは映すことはありません。





【解説】

私達の目の機能は、良く知られているように水晶体レンズで網膜上に投影された画像を感光体が受信し、その「信号」を脳でイメージに構築するといった原理になっています。もちろんその為、レンズが曇ったり、感光体の細胞が可能な眼圧その他で損傷すればその機能は損なわれます。

しかし、私達が実際、見ている、言い換えれば勝手に見ていると思っているのは、実は脳の中で再構成された感覚器官がつくり出したイメージから勝手に思っているのかも知れません。

実際には目は人体が外界の光を受けるために設けられた窓に過ぎません。また、その家の中に結ぶ像は単なる投影した2次元の像でしかなく、私達の感覚器官の巧妙なカラクリにより、あたかも実態を把握しているかの錯覚に陥っているということでしょう。言わばバーチャル(仮想)の世界であり、当然、窓からの情報は例えどのような優れた素材を用いても限られたものになることは良く分かります。

一歩、その家(自我)の限界を知り、家の外に出て、かつて家の中から見ていた景色を再度眺める時、私達はより広大な空と大地の下、もっと生き生きした姿、生命の活動がそこにあることが分かります。また、ひとたび、窓からは決して見えない物事が現にあり、生命を支えていることを知れば、再び家の中に戻った後に窓から見る景色は随分、変わったものになるものと考えています。

なお、本文の中で「盲人が盲人を導くようなもの」の意味することはこのような解説を提供する者にとっては、大変重い言葉と受け止めています。


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