ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第06課 段落235 [2008-02-28]

235 The story of the Prodigal Son in the Bible gives us a good insight as to what must take place. The mind of the prodigal son is a portrayal of all minds. For he, after deciding to return, had to humble himself and cast aside all of his pride, willing to face whatever might come. Knowing full well that some of the household would point fingers at him and remind him of his bad deeds. Yet he knew that their life was not his life. And they had not had the experiences he had gone through, even though they may have had similar ones. Knowing all of this he was still determined to conquer the will of his mind and return to the will of his real self - the consciousness - the Father of all forms.

235 聖書の中の放蕩息子の物語は私達に何が為されるかについて良い洞察力を与えています。放蕩息子の心はあらゆる心を表わす肖像画です。彼が家に戻ることを決心した後は、如何なる事態が来ようとも喜んでそれに直面し、自分を謙虚にし、自分のプライドをことごとく脇に捨てなければならないからです。家の中のある者は彼を指差して彼の悪事を彼に思い出させることも十分知ってのことです。しかし、それでも彼はその者達の人生は彼のとは異なっていたことは分っています。そしてその者達が彼と類似した人生であったとしても彼が通った体験はしなかったであろうこともです。これらの全てを知った上で、彼はそれでも自己の心の意志を克服し、彼の真の自己、意識、万物の父の意志に戻ることを決心したのです。





【解説】

何事も物事が立ち行かなくて、それまでの行動を取り止め、撤退することは難しいものです。私達は致命的な問題を抱えていても何とかそれを顕在化させずにごまかして、継続する道を選びがちです。その方が、苦労が無く、まさに惰性の生き方が楽だからです。

しかし、そのような生き方も長続きはせず、所詮、最後には長年のツケが溜まって手痛い後始末をすることになります。本文で述べられているように心による私達の生活(「放蕩息子の生活」)は、一見、自己を確立し自立する望ましい姿なのでしょうが、自我が意識に対して謙虚にならなければ立ち行かないことを十二分に体験し、これではダメだとなった初めて、かつての家に帰る(「意識からの印象に従う生き方をする」)決意がなされます。つまり、そこには、これまでの自分の行動の問題点を認め、これではダメだと自戒した上で、改めて創造主を受け入れることになります。

そういう意味では、この場合に自我は、良くそこまで決心したと両親が喜ぶような存在である訳で、息子が戻って来たと両親(創造主)が歓びに湧く事情も理解されることでしょう。いずれも宗教にも「懺悔」という業があるように思っていますが、この反省こそ、創造主と対話し、創造主の元に戻るきっかけになるチャンスの一つでもある訳です。


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