ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第01課 段落030 [2007-04-08]

030 In observing the effect of forms we do not see the liquids or life blood, which we call sap in the tree, which flows through it making it a living thing. Nor do we see the roots in the depths of the earth and the work that they do in drawing energy from the earth unto themselves. Nor do we hear the molecules that make the form speak to each other in guiding it to the fulfillment of its purpose. This could be called the cause behind the effect.

030 その形ある結果物を観察する時において、私達は木の中の樹液と呼ぶ液体、生命を支える血液を見ていません。しかし、それは木の中を流れてそれを生き物と成しているのです。私達はまた、地表深くある根を見ることもありませんし、根が木々に土壌からエネルギーを引き出す為に果す仕事を見ていません。また、私達はその形有るものを構成する分子が互いにその形あるものの目的を果すために導く中で、互いに話しをする声を聞くこともありません。これは結果の背後にある因と呼べるものでしょう。



【解説】

樹木についての観察の有り様を本文では示しています。樹木はそれほどに私達の身近な存在なのかも知れません。

古来より、日本では巨木に対して神(生命)が宿るとして畏敬の念を持って大切にして来ました。今日残る千葉県清澄山の「千年杉」をはじめとして各地の神社や寺院に残る杉や楠の巨木はいずれも、こうした日本人の樹木に対する尊敬の証しでもあります。また、古代の日本には文化史的には「神人融合」の時代があったとされています。西田直二郎「日本文化史序説」(昭和7年発行、改造社)には以下の記述があります。「『草木ことごとくよくものをいい』。また『天地わかるの代、草木ものかたりせし時』ありとしたのは、古代の日本人が、わが住む世界について考えたこころである。われらの祖先はその四周の山川草木のことごとくから、よく生ける声を聞いたのである。このこころのうちには自然の事象と人間の生命との区分がなお明らかについていない。而してこれはまた神と人との境がいまだ大きく分けられていない状態であった。かかるこころの裡には神はつねに人とともにある。(以下、略)」

この「自然と人間についての生命の区別が無い」ことや、「神(創造主)と人との境が無い」とする日本古代の概念は、この「生命の科学」本文の言う樹木の内部の生命を認識する観察に極めて類似しているように思われます。目に見えない(因に属する)生命活動を日常的に観察できる感性については、わが国古代の人々の方がはるかに鋭敏であったと言えるかも知れません。また、そのような感性を持てば、自分よりはるかに長年月生きて来た巨木に対し、畏敬を持って接するのは当然のことなのです。


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