ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第2部 4章 段落236 [2019-08-23]


236 Since we are part of this world, we must differentiate between the acts in our lives. We are allowed to analyze for the purpose of understanding, but must not divide or condemn. We have not the right to sit in judgment on our brother. He has come this way to learn his own lessons. And just as we cannot attend school for our children and expect them to receive an education, so we cannot attend the School of Life for another. We can offer a helping hand or a guiding word, but at no time should be try to force our will upon him. Remember, he may be struggling to learn the lessons we have already mastered, but he must master them himself.
236 私達はこの世界の一部である以上、私達の生命における諸活動の間を識別しなければなりません。私達はその理解の目的の為に分析することが許されています。しかし、差別したり、責めたりしてはならないのです。私達には兄妹に裁きを下す席に座る権利はありません。その兄妹は自身の教科を学ぶ為、ここに来たのです。また、私達が私達の子供達に代わって学校に行くことで子供達に教育を受けさせることが出来ないことと全く同様に、他の者に代わって生命の学校に出席することは出来ません。私達は助けの手を差し伸べたり、導きの言葉を掛けることは出来ますが、如何なる時であっても私達の意思をその者に強制しようとすべきではありません。覚えておいて欲しいのは、その者は私達が既にマスターした諸教科を学ぼうと努力しているかも知れませんが、彼は自分でそれらをマスターしなければならないということです。




【解説】
東南アジアの仏教は通常、小乗仏教とか南伝仏教、或いは上座部仏教と称されています。確かな知識ではありませんが、日本に伝わった北伝仏教、大乗仏教とは大きく違うところがあるとされて来ました。とかく日本では衆生の救済を願う大乗仏教の方が各自の修行を尊ぶ小乗仏教より、優れているとされがちです。しかし、現実に東南アジアで過ごして見ると、その見方とは異なる印象を持ちます。
本項は同様に各人がこの地(惑星)に生まれた宿縁を全うする中で所定の学びをすることが重要であり、その学びを私達が本人に代わって行うことは出来ないことを改めて説いています。
また同様に、仮に私達が他の者よりも多くを学び取っていたからと言って、相手に強制したり、ましてや相手の至らなさを非難することは厳に慎しむように命じています。
もちろん必要な助言は与えるべきですが、最後は本人の選択と決断、実践に掛かっているのです。こうした中、地上で暮らす各々が各自の勤めを果たすことが基本であり、その姿を見せることで衆生の目覚めを願うのが南伝仏教の本意であり、また本項で著者が説く所です。


第2部 4章 段落235 [2019-08-22] <<  |  >> 第2部 4章 段落237 [2019-08-26]