ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第07課 段落259 [2017-09-29]


259 To do this one must make the sense mind trust consciousness like trusting God. And this in turn calls for faith, oftimes called blind faith. To clarify blind faith a little further, we have eyes with which to see but they do not see any more than a window pane can see what is seen through it. It is you who sees through the window, so it is the consciousness of you that sees through the eyes. For when you become unconscious the sense of sight is still there but you no longer can see. The other senses follow the same pattern. So one should realize the importance of conscious seeing, or sense mind cooperation with consciousness if he is to have a cosmic memory of life. For then he can recognize himself through eternity from the pages of memory. This is an important phase if individual life if life eternal is to be earned. And that is what Jesus meant when He said, he who loses his life shall find life eternal.
259 これを成す為には、人は感覚の心を、神を信頼するように、意識を信頼させなければなりません。そしてこのことは次には信頼、即ち、しばしば盲目的信頼と呼ばれるものを必要とします。盲目的信頼というものを少しより明確にする為に見るのに用いる目について述べますが、目は自分が見ているものは窓枠がそれ自身を通じて見ている以上のものを見ている訳ではないのです。窓を通して見ているのは貴方であり、それ故、目を通じて見ているのは貴方の意識なのです。何故なら、貴方が無意識になってしまえば、視覚感覚はそこに未だあっても、貴方はもはや見ることはできません。他の感覚も同じパターンを辿ります。ですから、もし人生における宇宙的記憶を持とうとするなら、人は意識的に見ること、感覚の心が意識と協力することの重要性を理解すべきなのです。何故なら、そうすることで人は記憶のページの中から永遠を通じて自分自身を思い出すことが出来るからです。これは各自の人生が永遠の生命を得ようとするなら、重要な段階となります。また、これはイエスが自分の命を失うものは永遠の命を見い出すだろうと言った時にイエスが意味していたことです。




【解説】
本項はより詳しく私達が日常気を付けなければならない本講座の学習のポイントを記しています。とりわけ重要だと覆われるのは、部屋に設けられたガラス窓の表現です。この場合、ガラス窓は部屋、即ち肉体の一部なのですが、大事なのはガラス窓は外界からの光景を部屋の内部に投影するもので、その景色を理解し観察するものではないということでしょう。カメラのレンズと同様にそれ自身が見て理解する機能はないのです。
本文にあるように私達の中にある”意識体”がその光景を理解する訳で、肉体(部屋)の内部に”意識”と称される私達の本体があるという訳です。
従って先ずはその存在を自覚し、それを信じ、信頼することから私達は学習をしなければならないのです。もちろん、この意識なるものは身体全体の働きを支えている存在ですし、私達自身がその存在に気付き感謝することを喜ぶものです。そういう意味でも私達のこれまでの尊大な自我を戒めて、より静かに全てを見守っている意識と繋がることが、この学習のポイントと言えるのです。



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