ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 4章 段落366 [2015-07-24]


366 In the preceding illustration we may safely say that after a certain point, reasoning was not used at all. When this happens it is usually due either to an untrained will, or to just pure mental laziness. Admittedly it is a ludicrous example, but similar examples on a smaller scale occur in our lives daily. Controlling the reasoning mind is what we meant when we spoke of "stilling" it. If we will make it our servant rather than our master, we will not put rockers on our baby carriage of life.
366 前述の事例では、ある時点以降、推論は全く使われていなかったと言えると思います。このようなことが起る時は、大抵は訓練されていない意思であったり、単に単純な心の怠慢のどちらかが原因です。前述の例は明らかに滑稽な事例ではありますが、同様な例は私達の生活の中ではより小さな規模で日々起っているのです。推論する心を制御するということは、私達がそれを「鎮める」と表現する際に意図するものです。もし、私達が心を主人としてではなく、召使にするようになれば、私達は人生の乳母車に揺れ足をつけるようなことはなくなるでしょう。



【解説】
本項で少し注意して戴きたいのは、著者はreasoning(注:日本語訳としては一般に"推論"と訳されますが、本来適切ではないのかも知れません)そのものは、良くないものとして取り扱っていない点です。前項(365)の解説でも述べましたが、感受した想念・印象に対する各々の関連性を診るという意味合いで用いられています。
この診断は実は心が担う為、そのチェックを怠っていると前項のような誤った結果に導かれてしまう訳です。
この問題を回避する為に必要なことは、心が冷静な診断が出来るように心を鎮め統制することだと説いています。瞑想をするとかという行動はそのことを目指しているということになります。しかし、ここでも重要なことは、心は診断はするものの、決してそれを自らを高め本人自身を導くような能力は持っておらず、あくまで本人の支援補助者であるということです。


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