ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第07課 段落271 [2013-02-28]

271 The sense of sight is reflecting the effects, but not the life of the effects. It is like the window or mirror. But to have a reflection there must be a cause. So in a way we are half dead, or living only half a life. And Jesus said, let the dead bury the dead. Meaning that the pallbearers bearing the corpse are as dead the corpse. The form within the coffin lies unconscious of life and the ones carrying it are equally unconscious of life in full, or cosmic life. For the corpse lived a mental life as the ones who bear it do and once the consciousness withdraws, the mental is silenced. For it never knew itself as the real part which is the consciousness

271 視覚は結果物を反映していますが、その結果物の持つ生命は反映していません。それは窓や鏡のようなものです。しかし、映像を得るには因がなくてはなりません。ですからある意味、私達は半分死んでいる、或いは生命の内、半分しか生きていないと言えます。また、イエスはこう言いました。死者をして死者を葬らせよと。死体を担いでいる者も死体と同様に死んでいるという意味です。棺の中の肉体は生命の意識は無くなり横たわっていますし、それを運んでいる者達も等しく満ちた生命、宇宙の生命について意識していません。何故なら、その死体はそれを担ぐ者達同様に心による生活を送って来ましたので、ひとたびその意識が退くと、その心は沈黙させられます。何故なら、心は意識である真実の部分に関する自分自身について知らないで来てしまったからです。





【解説】

私達はいずれ死を迎えます。しかし、本項で述べるように「生命(Life)」というものは死を迎える肉体とは別の存在であると示しているのが、ここで言うイエスの言葉の真意ではないかと思っております。

つまりは、日常生きている私達も、実際には死人と同じであり、本来の生命を生きていない存在になっているという訳です。以前、別の所でアダムスキー氏は「ゾンビ」という表現をしていましたが、それも同様な意味合いかと思います。

逆に言えば、ひとたび「意識」に頼る生活に入ることが出来れば、今までに味わったことのない、生き生きした生活に変貌するということでもあります。結果物に頼る感覚の心を学ばせ、より深遠なる存在を万物の背後に洞察させることの持つ意義は私達が想像する以上のものになるということです。


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