ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第3部 2章 段落306 [2010-07-30]

306 So let us make an effort to keep an open, receptive mind at least part of the time; and when our mental telephone bell rings just lift the receiver quietly, and impartially accept the impressions coming to us. This does not mean sitting idly in meditation, waiting with folded hands for some great thought to come to us out of the universal storehouse; but that we should continue normally about our daily lives.

306 ですから、少なくともある時間、私達はオープンで受容的な心を保つよう努力して見ましょう。そして私達の心の電話器のベルが鳴ったら、静かに受話器を取り上げ、そして偏らずに私達の方にやって来る印象類を受け入れることです。これは何もせず座って瞑想して何か偉大な想念が宇宙の倉庫から私達の所に来るのを、手を組んで待っていることを意味するのではありません。そうではなく、私達は私達の日常生活について普通の暮らしを続けるべきなのです。





【解説】

本項で言う「手を組んで何もせずに座って瞑想する」こととは、明らかに座禅を指すものと思われます。座禅本来の意義については異論のある方もあるかと思いますが、いわゆる瞑想は受容的な心を育てることにはならないとアダムスキー氏は言っているのでしょう。この瞑想については、著者は他でも推奨しない記述を行っていたと思います。つまりは、日常的に結果に振り回されている私達にとって、只、黙して座すだけでは、心の受容性は高まらず、むしろ、心の平安さを留意しながら、日常生活を送る方が効果的だと著者は指摘していると考えるべきでしょう。

一方、同乗記の中では、長老の言葉の後、一同が思わず瞑想し、そのイメージを深めたとされるような記述があったように記憶しています。瞑想はさらに能力が高まった段階では、ごく自然に行われるテレパシー状態の一つなのかも知れません。

私達の日常生活は、これらテレパシーの応用先としては最も適切なものであり、受信した想念のヒント通りに動けば、スムーズな結果が得られますし、その逆では反省点も明らかになる生きた実例の場となります。また、その最も良い点は自分でその結果を体験できる点であり、良い結果が得られたら、その際の心の持ち様を記憶しておき、また次ぎに応用すれば良く、良くない結果が得られたら、その原因を明らかにすれば良い訳です。原因と結果の関係を自分自身を生きた教材として学習出来ることが大切な所です。


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