ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第2部 4章 段落236 [2010-04-12]

236 Since we are part of this world, we must differentiate between the acts in our lives. We are allowed to analyze for the purpose of understanding, but must not divide or condemn. We have not the right to sit in judgment on our brother. He has come this way to learn his own lessons. And just as we cannot attend school for our children and expect them to receive an education, so we cannot attend the School of Life for another. We can offer a helping hand or a guiding word, but at no time should be try to force our will upon him. Remember, he may be struggling to learn the lessons we have already mastered, but he must master them himself.

236 私達はこの世界の一部である以上、私達の生命における諸活動の間を識別しなければなりません。私達はその理解の目的の為に分析することが許されています。しかし、差別したり、責めたりしてはならないのです。私達には兄妹に裁きを下す席に座る権利はありません。その兄妹は自身の教科を学ぶ為、ここに来たのです。また、私達が私達の子供達に代わって学校に行くことで子供達に教育を受けさせることが出来ないことと全く同様に、他の者に代わって生命の学校に出席することは出来ません。私達は助けの手を差し伸べたり、導きの言葉を掛けることは出来ますが、如何なる時であっても私達の意思をその者に強制しようとすべきではありません。覚えておいて欲しいのは、その者は私達が既にマスターした諸教科を学ぼうと努力しているかも知れませんが、彼は自分でそれらをマスターしなければならないということです。







【解説】

進化した宇宙兄妹達が私達を見つめる視点は本項によく表現されています。本項はまた、私達自身についても言えることで、例え親子や兄妹、夫婦の間であっても同様です。進化の過程で上位の者から見れば、下位の者には歯がゆいものを感じるかも知れませんが、何事も本人に代わって行えることには限りがあるということです。暖かく見守ること、タイムリーにアドバイスすることのみが出来ることなのかも知れません。

まして相手の未熟さを突いたり、低俗なものを毛嫌いすることは裁きの行為であることに注意が必要です。

毎年、春になり、動物達が産卵の時期を迎える頃、これら小さな幼生が各々生命の息吹きを謳歌しながらも厳しい自然の掟の下、各々が元気よく生き抜こうとしている様子を見ることが出来ます。カエルの卵塊からは数えきれない数のおたまじゃくしが生まれます。もちろん、客観的に言えば彼らの全てがカエルになる訳ではありませんが、一つ一つはやがて来る試練にも耐えて一日も早く成体になろうと努力している筈です。もちろん、私達も宇宙兄妹達から見ればそのような存在だという訳です。各自の可能性は皆平等に天与されており、真の大人に成長できるかどうかは、各自の努力次第だということでしょう。


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