ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 3章 段落095 [2009-08-26]

095 I then turned to analyzing what impressions were, and found many of them to be what we classify as thoughts; our conscious thoughts, as well as the commands our minds are constantly transmitting to the various parts of our bodies.

095 私は次に向きを変えて印象類が何であるかを分析することにしましたが、その結果、それらの多くが私達が分類上想念とするもの、私達の意識に浮ぶ想念類であるとともに、私達の心が私達の身体の様々な部分に絶えず発している指令であることが分かりました。





【解説】

想念観察の難しさは観察する者と観察される者とが同一であるからのように思われます。おそらく観察に成功すれば本項に書かれているように、沸き起る印象(想念)の出所を分析できるようになることでしょう。しかし、私も含め多くの方にとって、いざ観察をしようと身構えると想念は引っ込んでしまって何も見つからないというような現象が起りがちです。それは海辺の砂浜に多数のカニが棲んでいる状況に似ています。人が来ると慌てて砂の穴の中に身を隠しますが、人が去った後は砂浜で皆活発に動き回る光景です。各々が自分の身を守ろうとする習性があるということです。

しかし、私達は自分の正体を見極めなくてはなりません。その為には、互いの緊張関係を無くし、ある程度は和やかに互いに包み隠さずありのままの姿を見せあう、リラックスした関係になることが大切です。たとえ観察の結果、自分の汚い部分が見えたとしても、それは長年月歩んだ人生航路の中で身に着いてしまったものですし、やむを得ません。少しずつ綺麗にして行けば良いことです。大事なのはありのままの自分を素直に見詰め、自身の実態を先ずは知ることだと考えています。


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