ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 3章 段落094 [2009-08-25]

094 This called for a great deal of patience; but I was finally able to train my senses to listen so they could receive impressions without question. Admittedly, this was most difficult to do, for the old thought-patterns insistently reappeared and gave their interpretations to my mind. But as I continue to gain control over my sense-mind, my impressions became more distinct; containing an increasing number of thoughts of a universal nature, with less involvement in personal opinions.

094 これは非常に多くの忍耐を要しましたが、私は最後は自分の諸感覚を疑義を差し挟むことなく印象を受け取れるよう耳を傾けられるように訓練することが出来ました。正直なところ、これを為すのは最も難しいことでした。何故なら古い想念のパターンがしつこく現れ、私の心に彼らの解釈を与えたからです。しかし、私が私の感覚心に対しコントロールを掛け続けた結果、私の受ける印象はより明白なものになり、個人的な意見についてはますます含まなくなる一方、宇宙的な性質の印象はますます数を増して来たのです。





【解説】

よく「無心で○○をする」という表現を聞きますが、それは「心が自分の意見を持たず、余計な反応を掻き立てる余地なく印象をひたすら受け入れ、それに基づき同時に行動する境地」を指すものと考えます。本項で述べていることも「疑問や解釈、判断、批評等」を行うことなく、印象に率直に耳を傾け、感覚自体の反応を鎮めることが重要だとしているのです。

そうすることで私達が感受する印象はよりはっきりしたものになって行く、即ち、私達の感受性は高まるとしています。これらの状況は地球においては大人になるにつれ、逆に衰え、鈍感になって来ているように思います。毎日毎日の記憶、感動した時の印象等、年齢とともにまばらなものになり、習慣性は高まる一方で、新しいものへの感受性は退化しているのが実態です。

これに対しては努めて今までの習慣的想念を捨て、これまでの志向性を脱ぎ捨てて、常に新しい側面を取り入れ開発することが望まれます。かつて一遍上人が熊野本宮で阿弥陀如来から夢で「信不信をえらばす、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」とのお告げを受けましたが、その中にも本項と同様、「相手に対して感覚自体の反応や批評を行わず、ひたすらメッセージを伝えるべし」とする、遠く鎌倉時代に発せられた宇宙からの印象があったものと思われます。ちなみにその一遍上人は詩人、坂村真民も着目し著作(「一遍上人語録 捨て果てて」(大蔵出版 1994年))を残しております。私は「捨て果てて」という一遍上人の言葉の真意は、この感覚の勝手な意見を全て捨て去ることを指すものと思っています。自分を無にすることの重要性を本項は述べているのです。


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