ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部 3章 段落069 [2009-07-16]

069 The question may arise: How do you explain those rare individuals who are born without feeling? They suffer no bodily pain, even from severe injuries. Will this impair their telepathic ability?

069 疑問が生じるかも知れません。フィーリングを生まれながらにして持たない稀な人々についてはどのように説明するのかと。彼らは例えひどい怪我をしても肉体の痛みに煩わされません。このことは彼らのテレパシー能力を損なうことになるのではないでしょうか?





【解説】

仮に触感(肉体の感覚)が無い場合は、テレパシー能力は損なわれるのかという問いかけです。結論は後続(070)に譲りますが、痛みを感じないことは一見、良いことのように思いがちですが、実は大変、危険なことです。例えば、歯科医で麻酔後は、しばらくは食物を摂ることを禁じられます。それは痛みの感覚が無いと、食べ物をそしゃくするという日常的な行為でも自らを傷つける危険性が高いからです。つまり、それほど、いわゆる触感は生活において大切な身体に対する警戒状態を受け持っている訳です。

その意外に大きな役割を持つ触感ですから、それが無くなれば、当然テレパシーに通じるフィーリングも損なわれると考えるのが普通ですが、その実態はどうでしょうか。答えは次項に述べられています。



さて、今回はここで、少し余談に入ります。今から3年前、2006年の頃のお話です。私が父を連れて台湾へ観光旅行をした時のことです。滞在した花蓮市のホテルの部屋で朝、何気なくテレビを見たら尼寺の朝の修業風景が放映されていました。一人の尼僧が修業の尼僧達に綿々と講義をしており、尼僧達はその講話を一生懸命聞こうとしている状況が映し出されていました。画面では漢字の字幕が出ていた為、ある程度の意味を把握することができました。その後、番組はその団体が行っている様々な社会慈善事業を紹介しており、哲学宗教面における大陸との違いを思い知りました。

また、台湾の花蓮空港では多くのチベット仏教僧を見かける等、ある意味、花蓮は仏教の聖地であるのかも知れません。実はその後、そのことについては、調べる余裕もなく、旅の行程が進み、最後の宿泊先である台北のホテルに着くことになりました。そのホテルの部屋の机には聖書の外に「静思語」と題する1册の本がありました。内容は仏教語録のようなもので、釈證厳(Master Cheng Yen)という尼僧が著者であり、中国語の語録に英語、日本語、スペイン語の訳語がついているものでした。その本の解説からその著者がテレビで見た花蓮で活動していた団体を主催していることが分かりました。当時の私としてはこの本を大変気に入った為、ホテルの支配人にその本を1册分けてもらい、日本に持ち帰りました。その後の調べで、その慈善団体(慈済Tzu Chi)は仏教をベースとして台湾国内はもとより広く、海外でも活動し、1991年には団体を主催する釈證厳さんはフィリピンのマグサイサイ賞を受賞していることが分かりました。様々な場所、様々な分野で人々を導く活動が行われているということです。

ちなみに「静思語」の一節(典蔵版p.202-203)を参考までにご紹介しましょう。

”家庭不能只追求豊富的物質生活

應著重心心霊溝通

使親子、夫婦間和諧、圓満”

"Do not just seek

a rich material life for your family.

It is more important for parent and child,

and husband and wife to communicate and

nurture harmonious and close relationships."

「家庭生活において、ただ物質的な豊かさを

追求するだけではならない。

むしろ「心の通じ合い」に重きをおいて、

親子、夫婦の仲が円満にいくよう心

かけるべきである。」

"No persigas solamente una vida

de riquezas materiales para tu familia.

Es ma's importante que haya comunicacio'n

entre padres e hijos,

asi como entre esposo y esposa

y que mantengan relaciones

armoniosas y cercanas."

以上、長々と紹介しましたが、内容はテレパシーと無縁ではありません。原文にある「心霊溝通」の意味は単にコミュニケーションという意味の外に、テレパシーに重きを置くとも読み取れます。つまりは、物質的な豊かさを追求するだけではダメで、もっと互いの心が通じ合える、即ち互いに相手の心が分かるようなテレパシックな関係になることを求めているように私には思えるのです。そのようなテレパシーの効用として、互いに誤解が無く、人間関係も円滑になるということを意味していると解釈できます。


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