ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課 段落419 [2009-01-15]

419 Many times when I was teaching in the early thirties a student would be sick and would not be at the class, yet on the following week when they returned he would report that he had not missed the class. For I was at the bedside giving the instructions yet I was not missed in the classroom. I was there before the students giving instruction through my mind and body while at the same time my consciousness was at the bedside of the one who was sick. It is like using two speakers with one microphone. Consciously I was conveying to the mind in my body that which was given to the students. In one place I was a solid form and in the other a thought form.

419 1930年代の初期、私が教えていた時に何度となく一人の生徒が病気になりクラスに出席することが出来ないことがありました。しかしそれでも、翌週にある次の授業にはその生徒は決まって自分は授業を受けられなかったことはないと報告するのでした。その理由は私は彼のベッドの脇に居て、教えを授けていたからというのですが、私はクラスに出席しなかった訳ではありませんでした。私は当時は生徒達の前で心と肉体を通じて教えを授けておりましたが、同時に私の意識は病気の一人のベッドの脇に身を置いていたのです。それはマイク1つで2つのスピーカーを繋げているのに似ています。意識的に私は私の肉体の中にある心に生徒達に教える事柄を伝えておりました。一つの場所では私は固体として形あるものでしたが、他の場所では想念の形態であったのです。





【解説】

本課の一連の講話の中で、アダムスキー氏の体験として、意識を用いることの応用事例として同時に複数箇所に身を置くことが出来ることを伝えています。もちろん、肉体は一つなのでその占める場所は一箇所に限られていますが、意識は自分が文字通り「意識する」ことが出来れば、距離に関わり無く身を置き、相手に影響を及ぼすことが出来るということです。

よく考えれば、これは相手をイメージ出来れば直ちに遠く離れた相手と意識的な交流を果たすことが出来るというもので、テレパシーの原理でもあるようです。このことは遠く離れていても相手が今何を考えているか、楽しんでいるか、苦しんでいるか等々を感知することでもあります。地球の日常生活においても時として、家族の間で「虫の知らせ」、「胸さわぎ」等で表現されるように、少しは気付かれているものです。

問題は、より多くの人々に平安を授け、苦しみや痛みを取り除く手助けとなることを如何に日々の各自の精神活動の一つとして行うかにあります。その祈りの姿の具体例の一つが仏像でもある訳で、遠く離れた仏国土にあっても、多くの惑星の民を救う為の沈想の姿には例え如何に鈍感な私達でも幾ばくかの感動を覚えることでしょう。万物に関心を持つこと、意識を向けることが大切だということです。


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