ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第02課 段落054 [2007-05-06]

054 Unless the sense mind disciplines itself and allows the consciousness to govern it, it will continue as it has in the past.

054 感覚心が自身を鍛練し、意識に心の支配を任せるようにしない限り、その状態は過去と同様、引続くことでしょう。



【解説】

昔から、敵は汝自身と言われるように、自分の心をどのように訓練し鍛練するかが大きな課題です。その為には心自体が自らを訓練する他はなく、大いなる意識という目に見えず、耳にも聞こえない「印象」による指導に心自身を委ねることが求められます。

これに関しては、イエスの幼子の例えが有名ですが、そもそも具体的にはどのようなことをイメージしているのでしょうか。最近、読んでいる本(坂村真民著「坂村真民一日一言」致知出版社、平成18年12月発行、P.20)に次の言葉が書かれていました。

「宗教は教学ではない。頭でいくら知っても、それは救いにはならぬ。救われなかったら宗教ではない。多くの人は宗教を哲学にしたりする。念仏さえ哲学にする。そんなものでどうして救われるものか。上人(注:一遍上人)の言われるように愚かなる者の心に立ちかえることが宗教であり、信仰なのである。聖書にも幼な子の心になれとある。幼な子に議論などはない。理屈などはない。抱かれる無心な心が、幼な子の姿であって、これより美しいものはないのである。」

とかく私達は、理屈で理解しようとします。こうして文字を打っているのも、半分は理屈の頭で作文しているのかも知れません。しかし、坂村真民も言うように先ずは、自らを空しくする、宇宙英知の前では全くの無知無学の身であることを恥じた上で、自分のおごりの心を鍛練し、宇宙に遍在する意識に自らを委ねるよう決意することしか、本来の向上は望めないと本文では言っているのです。理屈など考えず、意識に信頼を寄せて、心底受け入れる度量こそが大切だと考えます。幼な子は理屈抜きで、自分の信頼する存在に身を委ねる特質が備わっているから美しいのです。


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